現在ドイツ・ベルリンにて活動する映像作家の小林颯さん。コロナ禍の2021年12月より日本への帰国ができなくなり、自身が在外邦人として括られることを改めて自覚しました。本プロジェクトでは、在外邦人のためのマスク型の投影装置をはじめ、ベルリン在住・アジア出身の作家との対話、詩、エッセイフィルムの制作を通じて、エクソフォニー(母語の外に出た状態)の中で生活する在外邦人のイメージを探ります。

アドバイザー:森田菜絵(企画・プロデューサー/株式会社マアルト)/山川冬樹(美術家/ホーメイ歌手)

成果発表展の展示構成

―最終面談では、小林颯さんとアドバイザーの森田菜絵さん、山川冬樹さんがオンラインで参加しました。

小林颯(以下、小林):成果発表では、中国の詩人・廖亦武(Liao Yiwu)の中国語のインタビュー映像、その英語訳と日本語の詩を作成します。カメラ・オブスクラの装置は2台に変更して、中国人の友人の声で英語を、自分の声で日本語の詩を朗読して、それぞれの口を装置で投影します。廖さんにとっての母語/そうでない言語、つまり中国語/日本語・英語という対比になります。

山川冬樹(以下、山川):昨年8月の展示をベースに、廖さんを主役としたインスタレーションを制作するのですね。

小林:映像の見せ方は検討中ですが、iMacを仕込んだ箱を設置して、インタビューと詩の翻訳作業、朗読の様子を撮影した6分半のエッセイフィルムを流す予定です。

森田菜絵(以下、森田):8月の展示では、モニターではなくプロジェクターで映像を投影していましたよね。

小林:成果発表の会場に合わせて、iMacやパネルを使用した構成を考えていました。できれば、装置の前に立つと音声が聞こえるように超音波スピーカーを搭載して、日本語・英語のどちらかの言語しか聞き取れないようにしたいです。

山川:廖さんが中国語で話している様子をディスプレイで見せつつ、小林さんと中国人のご友人の口が装置によって投影されるのですね。投影された2つの口は重なるのですか。

小林:重なるイメージで考えていました。

森田:本来のカメラ・オブスクラは、風景が逆転してリアルタイムで投影されるものですが、投影するのは撮影した映像になるのですね。

小林:そうです。撮影した映像を、カメラ・オブスクラの機構を通して投影します。

森田:すべての大元になる廖さんの映像が、装置の脇に置かれる位置で良いのか気になりました。設置場所や方法は検討したほうがいいかもしれません。

山川:元は廖さんの中国語のインタビュー映像ですが、日本語と英語の投影装置がメインのインスタレーションでもある、その塩梅が難しいですよね。また、英語の音声があることで友人の存在が際立って、構造が複雑になっているように思います。英語は翻訳字幕の方がまとまりやすいかもしれません。

言葉は誰のものか

山川:言語について確認ですが、中国語がベースにあって、それから日本語と英語に枝分かれしたものになるのですか。

小林:廖さんのインタビューを友人と共同で英語に翻訳した後、そこから自分が共感できるところを取捨選択して、日本語の詩をつくります。

山川:英語に変換するまでは原語に忠実で、それをもとに小林さんが詩をつくる段階で、いわゆる翻訳と言えないほど抽象化されているということですか。

小林:そうですね。例えば詩では「I like Berlin very much.」という箇所を、日本語では「んー、ぼちぼちかな」と訳しました。英語と日本語の意味は、直接はリンクしていませんが、発言のタイミングは同時なので対応関係はわかります。

山川:意訳されることで、主体が廖さんから小林さんに入れ替わる現象が起こりますね。

森田:鑑賞者は、意訳されていることを認識できるのでしょうか。英語と日本語の差異なら多少は比較できますが、中国語との差異を認識できる人は、少し限られてしまうかもしれませんね。

小林:意訳による意味のチグハグさは、なんとなく感じられる程度です。自分がベルリンで体験した、母語で言いたいことが翻訳できないもどかしさ、母語/英語という二つの言語を使うことのもやもやしたアイデンティティも表現できればと思いました。

山川:このプロジェクトを通じて、廖さんの言葉や人生、エクソフォニーで感じたことを、小林さんは時間や労力を使って理解しようとしてきました。その成果が作品になるのが重要ではないでしょうか。

小林:自分も在外邦人というエクソフォニーではありますが、廖さんや友人のエクソフォニーを語るときには、自分は当事者であって当事者ではありません。廖さんについて、どこまで作品に入れ込むか悩んでいます。

山川:それはインタビュー映像の編集作業をするときの悩みでしょうか。誰かを撮影して映像を編集する行為は、多かれ少なかれ暴力性を孕むものです。そこから単なる暴力ではない何かを生み出すのが、アーティストの仕事だと思います。

小林:小松原織香さんの著書『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)を読んで、どうやって当事者として語るかを考えました。小松原さんは修復的司法(*1)の研究者であるとともに性暴力被害の当事者でもあります。「内面化した被害者たちの複数の声で語る」というパートでは、研究に対する指摘に対して「あなたたちは当事者ではないでしょう」という怒りを感じるけれど、自分の当事者としての経験を公表するのはためらわれるというジレンマがあり、そうした状況をどのように受け入れるか、その苦しみが書かれていました。

山川:そこに風穴があるならば、翻訳でしょう。翻訳は元の言葉と完全にはイコールになり得ず、訳者によって伝わるニュアンスが変わります。形式的には、小林さんが廖さんの言葉を代弁しているとしても、翻訳につきまとう宿命的な不完全さを、敢えてズレの豊かさとして扱うことで、当事者性が単純な暴力に晒されることは避けられるのではないでしょうか。

*1 修復的司法……当該犯罪に関係する全ての当事者(被害者、加害者、それぞれの家族、地域の人々など)が直接的に関与し、その影響を集団的に修復しようとするもの。

カメラ・オブスクラのマスク性

森田:企画書の図では、装置の数は3台になっていますが、成果発表の段階では日本語と英語の2台のみで、3台用意するのは難しいのでしょうか。

小林:2台では投影される像が小さいので、3台ほしいところですね。

森田:成果発表はあくまで途中経過ですので、完成形でなくとも問題ないと思いますよ。

小林:成果発表の時点では鑑賞者の口を投影せず、詩を朗読している口だけを投影する方がいいのではと気持ちが変化した部分もあります。

森田:中国語・英語・日本語の3段構造を示すのであれば、初回面談で見せていただいたインタビュー映像と2台の装置で十分わかりやすいでしょう。先のビジョンとして、3台用意してもいいのではないでしょうか。

山川:以前のプランでは、ペストマスクをモチーフにした装置に鑑賞者が話しかけ、その口が投影される体験型の作品でした。現段階では、マスク性はそれほど重要ではなくなっているのでしょうか。

森田:作品の動機は、マスクの中に独り言が溜まっていき、マスクとカメラ・オブスクラが重なったことにあります。装置の役割がマスクから離れることで、マスクの中の吐き出されない言葉に鑑賞者が気付きにくくなるのではないでしょうか。

小林:そうですね。少し持ち帰って考えてみます。

山川:コロナから始まっているプロジェクトですし、「本来はマスクに着想を得た装置で口を付けて体験するものですが、コロナのために今は利用できません」という説明もあると良いかもしれません。その先の最終的な完成形については、世界の変化とともに小林さんの中でもどんどん変化していくでしょう。

森田:小林さんの過去の作品で、毎年パウンドケーキを送ってくれる先生に電話をかける作品がありましたよね。そうしたクスッとしてしまうユーモア、ささやかな突破口のようなものが小林さんの持ち味だと思います。今回も重くなりがちな事柄を、装置を挟むことでポジティブに転換してくれると期待しています。

―今後は装置の意味合いを明確にした上で、それぞれのエクソフォニーを作品に昇華していきます。