映像作家として、アナログとデジタルの境界、感覚の粒子化をテーマに制作している五島一浩さん。文化庁メディア芸術祭では、第18回アート部門優秀賞『これは映画ではないらしい』のほか、多数の受賞・選出歴があります。団体への制作支援として採択された本企画『画家の不在』は、展覧会場の中央に「デッサンのモチーフ」と「モデルの座る椅子」を置き、その周囲に様々な大きさの凸レンズを吊るして、キャンバスにそのモチーフの像を映し出す作品です。

アドバイザー:久保田晃弘(アーティスト/多摩美術大学教授)/和田敏克(アニメーション作家/東京造形大学准教授)

作品を大きくすることの意味を考える

五島一浩(以下、五島):今まで経験した展示と比べて、とても広い空間を想定しているので、その点についてのアドバイスをぜひいただきたいです。会場は体育館を想定しており、その広さに対応するためにモチーフ群を充実させようと考えています。以前、東京のギャラリーで行った展示では「全体が廃墟」という設定で、石膏像の周りに造花やドライフラワーなどのモチーフを配置しました。そのときは特大サイズのレンズを10枚ほど使いましたが、今回は数を増やして50枚ほど使う予定です。モチーフ群の見せ方も、今回ポイントになってくると思います。
レンズは1枚ずつ、刺繍枠をはめて吊るします。刺繍枠を使うのはクラシックな雰囲気を出すためでもありましたが、結果的に、刺繍自体がビットマップ画像を想起させるような、点で画像をつくるところがコンセプトにも合うと感じています。
スポットライトや照明用スタンド、イーゼルはそれぞれ独立しているので、展示期間中のイベントに合わせて配置を変えることができます。そのほかに、会場を押さえるスケジュールなども相談できたらと思います。

久保田晃弘(以下、久保田):今の時点では、企画書通り具体的に進めていくよりも、「そもそも作品を大きくすることはいいことなのかどうなのか」という議論から始めるべきだと思います。作品を大きくするのであれば、コンセプトをそれ以上に強靭にしないと作品が負けてしまいます。メディアアートのように「技術」を使った作品が一番陥いりがちなのは、「大きなレンズだとこのように写る」という、「技術」のデモンストレーションになってしまうことです。大きさがもつスペクタクル性に見合うよう、コンセプトや方法論をバージョンアップすることが必要なのだと思います。

五島:ひとつの新しい取り組みとして、作品をA3サイズほどの大きさで再現したミニチュアを展示空間の片隅に用意しようと考えています。小さい椅子や石膏像、数センチの小さな凸レンズを使って、イーゼルに「像」を映します。自分は作品を上から見ているけれど、さらに自分たちのことも上の世界から見られているのではないかというように、大小のスケールのどちらにも認識が広がっていくような連続性を表現できるとおもしろいのではないかと思います。
作品のテーマとして、神様、つまり動物種の何らかの「意図」みたいなものがあります。創造主(神)と自分たちは直接対話しませんが、世界を上に辿っていった先の「宿命」のような部分が、大きさを変えることで表現できるのではないかと思っています。

作品の背景を、作品だけで伝えるために

久保田:今日これまでのお話をお聞きしての一番の懸案は、作品をおもしろく見るためには五島さんの説明が必要だということです。鑑賞者が作品だけからその意図を汲み取ることは、現状のままでは難しい。刺繍枠とビットマップ画像と言われても、鑑賞者は助けなしには気づかないと思います。作品体験を通じて何が現れるのかを、今一度深く考えてみて下さい。そこにはまだ検討の余地がありそうです。
例えば、2メートルの巨大なレンズがある場合と、今のレンズの倍くらいの大きさのレンズが5枚ある場合とでも、見たときの印象は全く違います。ただ数を増やして大きくするだけでは、作品の背景にあるものが薄れてしまうのではないでしょうか。むしろコンパクトにまとまっている方が、ディテールを見てもらえる可能性があるかもしれません。五島さんのやりたいことを、よりインパクトを出しつつ繊細に行う手段がほかにもあると思います。
展示場所も、果たして体育館でいいのかは疑問です。木目の内装などを見ただけで俗っぽさ、既視感が出てしまい、鑑賞者の緊張感や集中力がそがれてしまいます。五島さんの作品の場合、もっと無機的な場所の方がいいかもしれません。

五島:大きな空間で、照明を中央にしか付けない場合、周囲の壁は見えなくなります。作品を見ていく中で、「あれ?ここは体育館じゃないか」と気付く分にはおもしろいのではないかと思います。ただ、体育館だけではなく、ほかにもいくつか検討しているところです。

和田敏克(以下、和田):ちなみに前回の展示で設定していた「廃墟」とは、どういう意味でしょうか。

五島:全体が演劇の舞台装置だというように考えていて、「森の中の廃墟に忍び込んでみたら、不思議な魔法の技術の残骸があった。そこに忍び込んで、残された道具で遊んでいる」という筋書きを想定しました。それは私たちがこの世界にいることの暗喩になっています。作品自体が舞台という設定なので、鑑賞者が光に照らされながら進むと、袖からいきなり舞台に上がってしまった、舞台に上がったのだから何か演技をして、と言われているようなシチュエーションを考えました。

久保田:鑑賞者は作品を見に来るのであって、自分が見られるために来るのではないのでは?

五島:私は、それを含めて楽しい作品だと思っています。見る立場と見られる立場が同時に存在していて、見るつもりで来たのに、「あれ?見られている?」と気が付いてもらえたら。

久保田:そうしたときに、作品を大きくすることはどのような意味を持つのでしょうか。

五島:暗闇の中でモチーフにポツンと照明が当たっていると、遠くからは「見るもの(作品)がある」と見えます。でも自分がその場所に行ったときは逆に「見られていた」と立場が反転する。その状況は、遠近感があるほどおもしろくなると思います。

久保田:でも、それは会場に複数人いることを前提とされています。会場にひとりしかいなかったら「見られていた」と感じてもらうのは難しいと思います。

五島:確かに鑑賞者に期待し過ぎているかもしれません。

久保田:鑑賞者が作家に言われるままに動くとしたら、それはクリエイティブな場にはなりません。作家が考えていないことを見出せるところに、インタラクティブの意味があります。作家の想像力を超えた楽しみがある、という状況をつくるにはどうしたらいいかを考えてほしいです。シンプルであればあるほど、そうした自由度が高くなるのではないでしょうか。大きくすることによって、逆にミニマムにすることはできないでしょうか。レンズの数を大きく減らすとか、映る「像」を一つだけにするとか。この企画にはまだ見ぬ可能性があると思うので、展示会場のみならず、ぜひゼロからもう一度検討してみて下さい。

様々なアイデアを出しながらテーマを追求する

五島:今までの展示でできなかったことが、ほかにもあります。焦点距離が2〜4メートルほどのとても長いレンズがあって、前回展示した部屋だと「像」を結ばないのですが、おそらく体育館サイズの空間なら使えるのではないかと思います。まだ試したことはありませんが、投影した「像」が初めは暗くて見えず、見ているうちにだんだん見えてくると思います。

久保田:そういう発想の方がいいと思います。その様なアイデアは、五島さんの中には、まだほかにもあるのではないでしょうか。自分がやりたいスケールで、それらをとことん実験してみてほしいです。

和田:最初はよく見えないというところに、「画家の不在」というテーマがにじんでくるといいと思います。説明を厚くする必要はありませんが、鑑賞する中で「時間」を感じられるといいのではないでしょうか。見る人が想像したり、探したりする余地があるといいと思います。

久保田:鑑賞者が写真を撮れるようなサービスがあるのもいいかもしれません。

五島:はい。これまでの展示でも写真は好評です。ぼうっと映る自分の「像」は独特の雰囲気がある上、肖像画の一部のようにも見えます。
鑑賞者がレンズを持って移動しながら「像」を探すワークショップの企画も考えています。そのほか、写真印画紙を使用した撮影会など、会期中のイベント案をいくつか検討したいと思います。

―次回の中間面談に向けて、場所の候補を検討すると共に、さらに案を練っていく予定です。