人が何かを「見る」という行為について、その探求をさまざまな方法で可視化する村本剛毅さん。偶然同じ対象を見たもの同士が、視界を共有する独自のシステムを構築し、体験型インスタレーション作品《Lived Montage》の初公演を目指します。

アドバイザー:森田菜絵(企画・プロデューサー/株式会社マアルト)/山川冬樹(美術家/ホーメイ歌手)

他者の視界をモンタージュする

村本剛毅(以下、村本):作品の構造について説明します。

―眼鏡型の装置(以下、グラス)を取り出しました。

これを全ての参加者が装着します。一公演につき、参加者は10名程度を想定しています。
HMD(ヘッドマウントディスプレイ)の正面に、カメラが付いていて、その映像を中のディスプレイに映すと、いわゆる伊達メガネのようになります。これが個々のグラスの基本構成ですが、カメラとディスプレイを、異なるグラス間でも接続可能にしています。その組み合わせを制御することで、自分も含めたその場の誰かの視界のうち選ばれた一つが自身のディスプレイに表示され、自分の視界に他者の視界が映画のようにモンタージュ(編集)される状況を用意することができます。

―2021年に行った実験の記録映像を共有しながらさらに解説します。

作者ウェブサイトより

他者の視界が自身の視界にモンタージュされるタイミングは、同じ対象物を見たときのみです。つまり「私があれを見る、見ている」という状況が常に保持されています。

森田菜絵(以下、森田):実験の段階で一旦完成していて、さらにブラッシュアップしていく、ということですね。

山川冬樹(山川):実際に体験してみたいですね。

村本:はい、お見せできると嬉しいです。今日の面談会場での体験は難しいのですが、制作を進めている大学のスペースにいらしていただければ体験できます。

ノービートの音楽に、視点でリズムを刻む

森田:映像の切り替わりはとても機械的なようですが、あえてでしょうか。タイミングも特に演出はしていないですか。

村本:この2021年の実験では、演出はしていないです。モンタージュに切り替わるタイミングは、同じ対象物を二人以上が見ているとセンサーが感知したときで、そこからは一定の時間感覚で映像が切り替わります。表示の順番はランダムです。

山川:一定の時間でコンスタントに切り替わることで、体験者は視覚からリズムを得られるのかもしれません。実験ではノービートな音楽が流れていましたが、視覚からリズムやビートを感じる一方で、耳から入る音はノービート。そこに音楽的な構造が生まれることも考えられます。

村本:視点が切り替わり、そこにリズムがあること、それは自然なことだと思います。整理ができていない段階で音楽を導入すると構成が濁るのではというのもありつつ、時間がずっと連続していることのモチーフとして、前回の実験ではリズム感の弱い音楽を入れてみました。

山川:音楽が場の雰囲気を決めてしまうこともあるので、慎重になるのはわかります。でもノービートの音とスイッチングのリズム、その関係性は面白いと思います。

対象を「見る」とは

山川:自分自身を「見る」こともあり得るのでしょうか。たとえば幽体離脱のように。

村本:幽体離脱や憑依のような感覚になったというのは、実験の参加者からの感想にもありましたが、自分自身を視界の中心に捉えることが作品の構成上起こらないことは重要です。自分の後ろ姿が映り込むことはあります。例えば、私が目の前にある対象物を見ているときに、背後から同じ対象物を見ている人がいたら、その人の視界がこちらにモンタージュされます。そこには対象物と一緒に、視界の端に入り込んだ私の後ろ姿があります。

山川:そこで、「誰が見ているんだろう?」と振り返ると、視界が切り替わるわけですね。

村本:そうですね。また背後の人においても、同じものを見ている私のことを見ようとすると、私の視界はその人の視界から消えてしまいます。もう同じものを見ていないからです。同じ対象物を見ているときに、その意識の対象ではなく、あくまで映り込むものとして、他者の視界に私が捉えられます。

演劇と映画

村本:今回は、演劇を対象にしてみたいと思っています。

山川:演劇というのは、空間に役者が点在している、正面性のない市街劇(*1)のようなイメージでしょうか。鑑賞者の周りで演劇が起こるような。

村本:市街劇は知らなかったのですが、近いイメージかもしれません。既存の演劇を扱う場合、客席の視点を意識した空間の編成を解体する作業が必要になる場合があると思います。そういえばリハーサルのとき、ダンサーが不意に会話をし始め、それを皆で見ているのが、すごくよくて……。

森田:ノイズ的に発生したことによって、想定していなかった何かが起こった?

村本:はい。人はある視点しか持ち得ないのに、映画では当たり前のように複数の視点で世界が語られます。それが自然な表象であるとしたらそれはどういうことを意味するのか、私は興味があるのですが、その疑問に何かが与えられたような体験でした。フランスのシネマ・ヴェリテ(*2)やアメリカのダイレクト・シネマ(*2)も先行する試みとしてリサーチしたいと考えています。小さなカメラで生きた現実を捉えるドキュメンタリーの手法で、言葉だけ聞くと一人称映像を想像しがちなのですが、決してそうではなく、ちゃんとモンタージュされて複数の視点をつないで描かれています。

*1 市街劇……寺山修司が考案し劇団「天井桟敷」によって上演された公演形態。ある現実の市街を会場に、観客は地図を頼りに、各々自らの足で歩き、同時多発的に行われる演劇に遭遇する。
*2 シネマ・ヴェリテ、ダイレクト・シネマ……ドキュメンタリー映画の形式の一つ。

ものを「見る」こと

山川:人間がものを見るときって、見えていない側面や背面のことも想像的に見ていますよね。他者の視点を想像しながら……。それを「相互主観性」というのでしょうか。「見る」ってすごくあやふやなこと。村本さんの研究テーマはそういうところなのでしょうか。

村本:他者とそのパースペクティブは、私と世界や対象の関係が明らかになったあとに副次的に取り組む主題ではなく、常に私と世界を構成する当事者としてあり、「私がこれを見ることができる」そのことの只中に既にある。この作品は、そういった事態を、ある意味無邪気に、網膜レベルに拡張しています。本作における複数の視点で世界を語る映画的形式は、視覚に後から押し当てるものではなく、視覚に内在したものから聞き取るようにして構成されるものです。

山川:自分の視界が他者の視界に切り替わったときに、それをそのまま自分の視界として捉えるのか、あるいは「人にはこう見えている」と想うのか。両方あり得るとは思うのだけど、後者のような客観的な認識は、そこで起こっている状況を冷静に捉えないとできない気がしています。要は、頭がおかしくなってくるんじゃないかと。「私」「あなた」がそれぞれ個別の主体として存在しているという、その前提が壊れて、皆連続した存在に感じられるような。それがすごく面白いポイントなのだろうし、神の視点に近づくこととも言えるのかもしれません。

村本:参加者の感想で多かったのは、夢の景色や、小説を読んでいるときの景色に近かったというものです。

受動性と能動性ーーインタラクションはノイズになる?

山川:このシステムの中でスポーツ、例えばサッカーをしたらどうなるんでしょう。どれが誰の視点かを瞬時に把握しながら、理性をフル回転して動かなければいけない。それは夢の中ではなかなかできませんよね。夢の景色に近いこの状況に抗うようなことですが。

村本:自分の身体がそこに働きかけうるものとしてモンタージュされた映画的景色を知覚する、スポーツという発想はある意味素直な選択だとは思いますが……。

山川:スポーツと言うと、試合やゲーム性みたいな面に意識が行きますが、演劇的な仕掛けの中で球を投げ合うような出来事を組み込むというのはアリなのではないでしょうか。

森田:インタラクションがあると、参加者にはかなり仕組みがわかりやすくなりますよね。

村本:話していて、自分の中でまだ整理がついていないと認識しました。場と参加者がやりとりできることには好意的な時もあれば、参加者には幽霊のように漂っていてほしいと思う時もあります。

山川:受動的に、相互主観的に他者の視点を受け取ることと、能動的に自ら動いて他の視点を獲得しにいったり、あるいは対象に自ら働きかけて動かしたりすることって、体験として大きく異なりますよね。

村本:全く異なるとは思いませんが、受動と能動の差異が大事なのは理解できます。キュビスム的な対象の把持とスポーツ的な視覚の関係は、この作品から遠いものではありません。

山川:メディアアートの作品鑑賞で、インタラクティブな仕掛けに対して能動的に働きかけるときに、脳がゲーム体験に近い作業をし始めてしまう時があります。純粋にその作品を受け止められなくなって、体験の豊かさを削がれていると感じる。それは相互主観性からどんどん離れているとも言えるのかもしれません。

村本:身体が関わることによって対象が記号性を増していくことを、この作品から遠ざけるべきだとは思いませんが、インタラクティビティが作品体験を飲んでしまうシチュエーションはとてもよくわかりますし、スポーツと対比させた理由も理解できました。持ち帰って考えてみます。

山川:どこにフォーカスするか、進む方向次第で、色々な可能性がありますね。視覚的な作品でありながらも、聴覚や触覚など他の感覚とどう連動するかもとても重要です。
「みる」ことの常識を根本から問い直す、大変興味深いプロジェクトだと感じています。頑張ってください。

森田:八谷和彦さんの作品『視聴覚交換マシン』(1993年)の時代から30年近く経った今の技術と、見ることについての哲学的な考察。技術と思想の両方が、この時代にどこでピタッと合うのか。すごく楽しみです。

―システム・内容ともに、中間面談までにさらに整理し、深める予定です。