行為の主体を自律型装置や外的要因に委ねた作品を多く制作するやんツーさん。文化庁メディア芸術祭アート部門において、これまでに第15回で新人賞『SENSELESS DRAWING BOT』(菅野 創との共作)、第13回で『Urbanized Typeface : Shibuya08-09』、および第20回で『形骸化する言語』が審査委員会推薦作品に選出されています。今回採択された企画『鑑賞者をつくる』(仮)では、マルセル・デュシャンの「みるものが芸術をつくる」という言葉から、作品を芸術として成立させる「鑑賞されること」に焦点を当て、人間以外の主体による鑑賞が芸術として成立し得るのかということを考察します。

アドバイザーを担当するのは、アーティスト/多摩美術大学教授の久保田晃弘氏と、編集者/クリエイティブディレクターの伊藤ガビン氏です。

―最終面談には、今回の企画に協力される、プログラマーの稲福孝信(いなふく・たかのぶ)さんが同席されました。

セグウェイが作品を「鑑賞する」行為を通して

やんツー: 「DOMANI・明日展」(2018年1月13日〜3月4日、国立新美術館)では、新作としてのセグウェイが僕の旧作を鑑賞する、という形式のインスタレーション作品を発表しました。今回、「鑑賞する主体」を何にするかと考えた時に、元々空間を自由に動き回る能力が携わってるセグウェイのようなものがまず思い浮かび、調べるとNinebot mini Proという機種が安価で良さそうだということが分かり、更に同社の製品はアプリでリモートコントロールできることが判明し、このモデルを採用することにしました。ただ購入後にソフトウェア開発キット(SDK)が配布されていないことが発覚し、オリジナルのアプリを開発するのではなく、ハードウェアでアプリを物理的に操作するという制御方法にシフトしました。そこでそのハードには、動作の精度が高く、精密に制御できるロボットアーム、uArm Swift Pro(ユーアームスイフト プロ)を使うことにしました。鑑賞行為は機械学習を使わずできるだけチープな方法で実装できた方が現代人の「鑑賞する」という行為に対する批評になると考えていました。そのことを踏まえ、「鑑賞する主体が空間における現在位置を把握する」という能力をどのような方法で実装するべきか、稲福さんに相談すると、電波の強度から位置を測位するビーコン(無線標識)を使う方法を紹介されました。僕はカメラの入力を使ったコンピュータビジョン的なアプローチを当然イメージしていたのですが、これだとカメラを使う必要がない、つまり何も見ていない状態になるのでコンセプト的にもふさわしいと思い、この技術を使って実装することにしました。

過去の作品一つひとつと空間の四隅などに、電波を発するBluetoothのモジュール(BLE:Bluetooth Low Energy)を取り付けています。受信した電波の強度が強い順に選んだ3つの電波から、それぞれのモジュールまでの直線距離を算出し、3つのモジュールの相対座標から位置を算出するGPS測量で使われている方法を採用してます。セグウェイが現在地を把握してランダムに見る作品を決め、自分の向いている方向からどれだけ回転しなければならないかを算出し、作品の方に向かいます。ある程度作品に近づくと、距離センサーが反応してぶつからずに止まるという仕組みです。目的地に到達したら、鑑賞しているかのようにしばらく滞在させ、また次のターゲットを決めて同じように動く、というルーティンで稼働させました。
セグウェイにはiPhoneを設置し、カメラのシャッター音だけが時々鳴る仕組みも入れました。実際には何も撮っていませんが、シャッター音が鳴り響く昨今の美術館の展示空間、作品の消費のされ方を象徴的に表そうとしました。

現代人は、美術館やギャラリーで作品を本当に見ているのか。そこでは何を見ているのか、テキストを読んでいるだけなのではないか。といった、鑑賞の行為の質を問う作品であることを強調できたのではないか、と思っています。ただ能動的に鑑賞する対象を知覚して、その質について評価するという行いが「真の鑑賞」なのではないかと考えているので、現代人の鑑賞行為が本当の意味での真の鑑賞とは言えないと感じています。自己の経験から知覚して得たものを比較対照し、相対化して価値を定量化する機能を持った主体を作って、今後展示したいと思っています。

「鑑賞の解体」をキーワードに

久保田晃弘(以下、久保田):コンセプトの「鑑賞」という言葉の意味がまだ定まっていないように感じました。「真の鑑賞」という言葉を使われていましたが、そんな権威的なことを言ってしまっていいのでしょうか。「真の」ものがあるならば、逆にそのことを懐疑的にみる必要があると思います。初回面談で議論した、作家の意図したことを伝えるコミュニケーションが鑑賞なのか、ハロルド・コーエンがやったような多様な意味を生み出すものを鑑賞とするのか、どっちのことを言っているのかを明確にするべきかと思います。
また「鑑賞の行為の質」とおっしゃっていた点ですが、なぜ質を考えなければいけないのか。さらに結界を作ったことから、セグウェイを見ている人間が鑑賞者になってしまいました。さらに、twitterで感想をつぶやいた人は何なのか。その人たちをメタ鑑賞者というのか、あるいはポスト鑑賞者なのか。「鑑賞」を問う作品を作ろうとしているからには、、そこに一本筋を通しておく必要があると思います。
「DOMANI展」で期せずして何を実現できたかというと、アフォーダンス以降の「環境に埋め込まれた知性」の場が生まれたということです。鑑賞と環境の問題など、今の時代の流れの中で見え難いものが見えてくる可能性があります。ビーコンの位置が知識で、それをアフォードしているわけですよね。ですから、この作品のポイントは、センサーの設置位置だと思います。

稲福孝信(以下、稲福):今回やってみて面白かったのは、システムとして回りくどいやり方をやって、雑になっていることが、結果としてそれっぽく見える状況が生まれたことでした。つまり、ビーコン自体が知性で、知性が解体されていることなのかなと思いました。

久保田:ビーコンを置く位置がどういう意味を持つのかを、セグウェイの動きを観察しながら一つひとつ吟味していくことで、そのポジションをコンセプトにできると思います。また、センサーで壁や作品にぶつからないようにしていることなどは、一つひとつ記述しておくといいと思います。そのように作られた環境の中で、セグウェイがふらふら動いている。もしかしたら、このセグウェイは鑑賞者ではないかもしれない。例えば、タイトルを「これは鑑賞者ではない」とするのはどうでしょうか。

稲福:やんツーさんの興味は、普通の鑑賞とはちがう、反芸術的な鑑賞について考えていくことなのかな、という印象がありました。

久保田:僕は、ポスト鑑賞について考えるといいのでは、と思います。遍在する鑑賞。そのために今回、まずは鑑賞の解体からやってみたことが大事なのではないでしょうか。

伊藤ガビン(以下、伊藤):見ないということを決めた部分は、良い起点かと思います。鑑賞とビーコンの関係性で成り立っていますが、そこは作品とは関係なくなってしまっているのかは気になります。

久保田:今回のセグウェイは作品を見ていないし、そこから意味を見い出しているわけでもありません。これは鑑賞なのか?ということを投げかけ、美術館に来て鑑賞する行為を無化するところまで行くと、最初のプロポーザルで言っていた「鑑賞者をつくる」ことに対するアプローチになります。ただ、常に問い続けなければならないのは、そもそも何のためにこの作品をつくっているのか。このシリーズを長期的に展開していく予定でしたら、そこにぶれない一つの筋が必要です。その意味で、「鑑賞の解体」は重要なキーワードになるのではないかと思います。

来場者の感想と、展示で気づいたこと

やんツー:「DOMANI・明日展」でいただいた感想の8割くらいが、自律的に動いているように見える主体に感情移入してしまう、というものでした。セグウェイを擬人化し「健気だ」とか、「かわいい」とか、「かわいそう」とか。また、その動きから「今のセグウェイの感情やコンディションを想像してしまう」という感想もありました。これらはある程度予測していたのですが、予期していなかったフィードバックとしては、「メディアアートの可能性と限界を同時に語ろうとしている」「ロマンを感じた」というものがありました。またtwitterでは、「装置が勝手に動いて完結してるので、自分が鑑賞者であるという義務から開放された感覚があった」という感想もありました。

伊藤:そのtwitterの意見は、鑑賞者じゃない立場になった、という鑑賞の仕方が生まれているということかもしれませんね。

久保田:フィードバックについては、それを受け入れるかどうかではなく、なぜそういうフィードバックが来るのかを、ご自身できちんと整理することが大事ですね。成果プレゼンテーションに向けて、これから作品を改良するというよりも、「DOMANI・明日展」で展示した作品を振り返り、現段階でわかったことを明確にしてほしいと思います。僕としては、ビーコンという環境情報でセグウェイがコントロールされていることが、作品の背景や文脈のメタファーになるようにも思うので、このビーコンの位置の意味に対する検討結果なども発表してもらえればといいと思います。

―2月23日に開催される成果プレゼンテーションでは、展示した作品の紹介と今後の展望などが話される予定です。