行為の主体を自律型装置や外的要因に委ねた作品を多く制作するやんツーさん。文化庁メディア芸術祭アート部門において、これまでに第15回で新人賞『SENSELESS DRAWING BOT』(菅野 創との共作)、第13回で『Urbanized Typeface : Shibuya08-09』、および第20回で『形骸化する言語』が審査委員会推薦作品に選出されています。今回採択された企画『鑑賞者をつくる」(仮)では、マルセル・デュシャンの「みるものが芸術をつくる」という言葉から、作品を芸術として成立させる「鑑賞されること」に焦点を当て、人間以外の主体による鑑賞が芸術として成立し得るのかということを考察します。

アドバイザーを担当するのは、アーティスト/多摩美術大学教授の久保田晃弘氏と、編集者/クリエイティブディレクターの伊藤ガビン氏です。

芸術/作品/作家/鑑賞者とは

やんツー:前回の面談後、コラボレーターの稲福孝信氏と打ち合わせを重ね、どのような作品にしていくかという議論を進めています。方向性としては、ドローイングマシンはつくらず、「鑑賞者をつくる」ことに絞って進める予定です。また、『分析美学入門』(ロバート・ステッカー著)を読み、「芸術」「作品」「作家」「鑑賞者」などの定義を行いました。

―ここで資料をもとに言葉の定義についてのまとめが報告されました。

1)「芸術」は、「知覚」と「文脈」という2つの大きな要素に依存する。
・「知覚」とは:美や美学に関係するもの。退屈なもの、醜悪なものも含め、あらゆるものから美を見出せる
・「文脈」とは:芸術(芸術哲学)に関係するもの。歴史的なコンテクストを踏まえて、そこにはないものを新しい価値と捉える

2)「作品」とは、以下のどれかを満たすもの。
・意図的につくられた/見出されたもの
・芸術的意味が付加されたもの
・自然物ではないもの
・知覚できるもの
・意図的に意味を生成しているもの

3)「作家」とは、以下を満たすもの。
・ある対象を「再現」する
・情動を「表現」する
・既存の物や事象に、歴史的文脈を理解した上で「意味」を与える

4)「鑑賞者」とは、対象について以下のことを総合的に判断し、どういった芸術的意味があるか導き出すもの。
(以下の機能を持つ主体をつくればよいのではないか)
・芸術作品としてつくられた/見出されたものかそうでないかを判断する
・対象が置かれている環境/空間で判断できる(?)
・美術館に置かれていたとしても、作品なのかそうでないかを判断する
・歴史的文脈を勘案し(データベースと照らし合わせ)評価する
・データベースにないものかどうかを判断
・類似性を数値化(?)
・対象と対峙した時の知覚の反応を指数化し、ダイナミズムを評価

『分析美学入門』(ロバート・ステッカー著)

「鑑賞者をつくる」ことで何を伝えたいか

やんツー:鑑賞の場所や対象を問わず、芸術作品としての価値を定量化できるものをつくりたいと考えています。それが人間の知覚できない対象についても評価できる「超鑑賞者」となることも視野に入れています。こうした「鑑賞者」に必要な能力を実装する方法については、コンピュータービジョンの研究者で人工知能にも明るい菅野祐介氏に相談しました。
まず、今回のプロジェクトを説明した上で真っ先に指摘されたのが、最近の人工知能/ディープラーニング研究のトレンドである「GAN(敵対的生成ネットワーク)」から派生した「CAN(敵対的創造ネットワーク)」という新しいシステムの中でのDiscriminator(識別装置)のふるまいが、上で定義した理想的な「鑑賞者」にそのまま当てはまるのではないかということでした。GANのDiscriminatorは生成されたモデルが本物に近いかどうか見分け、結果を洗練させていくのに対して、CANののDiscriminatorは違和感のある結果やバグのようなものも採用し、生成結果に反映させ創造性を獲得しようというアプローチです。
実装するにはまず膨大な量の美術に関するデータが必要なのですが、そのデータセットをどうやって用意するかという問題があり、そこがまずとてもハードルが高そうです。また、制作する「鑑賞者」が何か過剰にアウトプットしてしまうと、それはもう「表現者」になってしまうという指摘もあり、「鑑賞者」をどう見せるべきかを模索しています。
一方で、そうした「機械学習」などの高度な技術を使わない、bot的なアプローチも考えています。以前『SENSELESS DRAWING BOT』で提示したように、意図のない動きから生成されたものを、見る側は自発的に意味を見出してしまうというものです。「機械学習」と「bot的なもの」、この両方からのアプローチで制作を進める予定です。

久保田晃弘(以下、久保田):そもそも何をつくりたいのか、やんツーさん自身の中ではまだ整理できていないかもしれませんが、実のところはかなり見えてきていると思います。決して正しいものである必要はないので、仮説的「象徴」として考えさせるような手がかりを、この作品で見せてほしいです。
また「鑑賞者をつくる」ことを通して、何を伝えたいかを明確にすべきだと思います。1つは、文脈を問わずに作品を鑑賞してしまうことに対するメッセージを出していく、ということがまず言えそうですが。

やんツー:はい。そういう皮肉めいたものをつくりたいとも思っています。

久保田:それは皮肉ではなく正論ですね。次はそれをどのように打ち出していくかを考えるべきで、システムのつくり方で悩む必要はあまりないのではないかと思います。もう一度最初のコンセプトに立ち戻れば、方向性が自然と見えてくるのではないでしょうか。

やんツー:botをつくることも自身の作家性の1つだと思っております。

伊藤ガビン(以下、伊藤):今回はそこからはみ出したところに行こうとしているけれども、結局立ち戻る必要があるのかもしれませんね。

久保田:例えば『SENSELESS DRAWING BOT』を置いて、それを鑑賞する何かをつくる手もありますよね。

伊藤:『SENSELESS DRAWING BOT』が生成した、意味のないものから意味を見出す鑑賞者をつくる。そうすると、完全にbotになりますよね。ただ、この作品の複雑さは「鑑賞者」を見る「鑑賞者」がさらにいること。皮肉というのは後者の鑑賞者に対してなのか、そこにいない一般的な鑑賞者に対してなのか。構造が複雑ですね。

芸術作品の「文脈」を問う

久保田:構造は複雑なので、表象は簡単な方がいいと思います。例えば鑑賞者が見るものが「猫」でもいいし「ハエ」でもいい。どんなシンボルを選ぶかというところに作家のセンスが出ます。
また、この作品でもう一つ重要な点は、学校や学習が持つ政治性の問題も関係していることです。例えば学校の授業で「これは良い作品です」と教えることには、常に政治性が孕んでいます。機械学習の強みは、良し悪しの判断をする前に膨大なデータを学習するところです。何が良い作品か、ということは恣意的なものなのです。今回の『鑑賞者をつくる』ことのなかで、鑑賞者が見る対象にいわゆる「美術作品」を持ってくると、「ほら、AIもこの作品が良いって言っている」と利用する人もなかには出てくるかもしれない。美術とはポリティカルにつくられた善悪の判断を教条的に教授するものではない、ということを打ち出せれば、最初の目的が達成されるのではないでしょうか。

伊藤:やんツーさんが今回の企画を考えるきっかけになったことの1つには『SENSELESS DRAWING BOT』などの経験が関係しているのでしょう。機械が描く、意味を排除したドローイングを見て、色々な人の色々な感想をきいたのだと思います。そういう人に対して今回は何を言うか、ということですよね。

久保田:CANというシステムが持っている意味は何か、を考えることは大事ですが、それを実装することが目的ではありません。アーティストとしては特殊解をどう見つけるかがポイントです。そこが一般解を求める研究者との違いでしょう。将棋や囲碁、チェスなどはAI研究でよく用いられていますが、「人間の弱点は物事に物語や意味をつけることだ」とよく言われます。人間だけができる特別な能力だと考えられて来た物語や意味が、逆に視野を狭めてしまうことが、機械学習によって明らかになっている。そこが教訓ではないでしょうか。つまり芸術における「文脈」とは何か、既存の美術史がいかに美術の視野を狭めているか、それを問うところが肝ではないかと思います。

やんツー:『SENSELESS DRAWING BOT』をあえて置くことも含めて、どのように作品化するか、さらに検討したいと思います。

―次回の最終面談では、成果プレゼンテーションに向けた進捗について報告される予定です。