行為の主体を自律型装置や外的要因に委ねた作品を多く制作するやんツーさん。文化庁メディア芸術祭アート部門において、これまでに第15回で新人賞『SENSELESS DRAWING BOT』(菅野 創との共作)、第13回で『Urbanized Typeface : Shibuya08-09』、および第20回で『形骸化する言語』(菅野 創との共作)が審査委員会推薦作品に選出されています。今回採択された企画『鑑賞者をつくる』では、マルセル・デュシャンの「みるものが芸術をつくる」という言葉から、作品を芸術として成立させる「鑑賞されること」に焦点を当て、人間以外の主体による鑑賞が芸術として成立し得るのかということを考察します。

アドバイザーを担当するのは、アーティスト/多摩美術大学教授の久保田晃弘氏、編集者/クリエイティブディレクターの伊藤ガビン氏です。そして、ソニー株式会社UX・事業開発部門 UX企画部 コンテンツ開発課統括課長の戸村朝子氏も同席してくださいました。

芸術を成立させる「鑑賞者」をつくりだす

やんツー:これまでメディアアートをフィールドとして作品を作ってきましたが、表現全般、そして現代美術への関心も高まってきました。アートの文脈において、メディアアートはその性質上、エンターテインメント性の強いものとして見られる傾向があります。例えばドローイングマシン(絵を描く装置)の作品を発表すると、ドローイングマシンの作家だと思われてしまう。しかし、装置自体をつくることは作品の本質ではありません。そこで今回は、美術史や現代美術の動向を踏まえたうえで「メディアアート」に取り組みたいと思っています。

過去に発表した作品『Examples』(2016)は、空間や物質など彫刻的な「モノ」に対する問題意識を考えるきっかけになりました。この作品で試みたことは、空間の中でモノの位置が変わっていったとき、例えばモノとモノが近くに寄ったときに意味が生成されたりすることや、鑑賞者各々が物語を想像することを考えて作りました。鑑賞者がどう切り取ってどう解釈するかが多様に生成されることが面白いのではないかと考えています。

また『Avatars』(2017,菅野 創との共作)は、電話や車、植物など日常的なオブジェクトで構成されたインスタレーションですが、鑑賞者はウェブブラウザを通してこれらのオブジェクトを遠隔から操作できるようになっています。私たちはこのことをオブジェクトに「憑依することができる」と言っていました。展示会場ではオブジェクトが作品を形成するコンテンツにみえますが、インターネットを介した鑑賞者の側からみると、会場にいる鑑賞者さえ作品の一部として捉えられるという仕組みです。

これらの作品を踏まえて、今回はより直接的に「鑑賞者をつくる」ことに取り組みたいと考えています。ただ、アウトプットについて、人間ではなく装置やモノが鑑賞している状況を説明的にならないようにどう提示するのかを考えているところです。構成要素のひとつであるドローイングマシンは鑑賞体験をフィードバックする装置として使用を想定していますが、その構造が間接的すぎるとも感じていて、ドローイングマシンの必要性についても考えています。

本企画の提案時のインスタレーションの作品イメージ

伊藤ガビン(以下、伊藤):『Examples』の印象は、ここで用いたモチーフに拠るのかもしれませんが、これまでの作品よりも既視感がある印象を受けました。これまでのやんツーさんの活動から解釈するとよく分かるけれど、その場で起こっていること自体は既視感がある。『Avatars』で置かれたモノも必然性が分からない。美的な感覚で選んでいるものが並んでいるというか、感覚的に選んでいるところがあるのではないでしょうか。

久保田晃弘(以下、久保田):例えば、今回の企画の「作品イメージ」に描かれているトランプ大統領の写真などは本当に必要なのかな、と僕も思いました。

やんツー:このイメージを描いたときは、なるべく多様な意味の、全然違うモノ同士の組み合わせという観点で描きました。違う文脈を持ったモノ同士が出会うことによって、新しい意味が生まれ、鑑賞者がそれをどのように切り取るかで「鑑賞者が芸術をつくる」と考えています。

「鑑賞」「作品」などの言葉の定義が必要

久保田:それはつまり「芸術とは今までにない文脈を語るものである」と定義しているということですね。例えば「トランプ大統領」と「箪笥」という組み合わせは、何かのデータベースから「今までにない文脈だ」ということが証明され、それが発見されたときに「鑑賞が生まれた」となる、ということでしょうか。それをきちんと言語化できると良いと思います。言語化することで「鑑賞とは何か」「作家とは何か」「作品とは何か」ということが議論できるようになります。そうでないと問題が絞れません。「芸術」「作品」「作家」「鑑賞」といった言葉をひとつひとつ定義していくことで、何が間違っているのかがわかる。まず、自分が本当にやりたいことが達成できているかにだけ基準を置き、それを達成したあとに分かりやすさを考えていけばよいわけです。
そう考えるとドローイングマシンは置かなくて良いかもしれません。装置は「表現者」であり、それを置くと「鑑賞者をつくる」ことに対する問題がぼかされてしまう気がします。「これがなければ作品が成り立たない」ものが何なのか、ということを常に確認しておくと良いのではないでしょうか。また、政治的なものや美術的なものも一旦外した方が良いでしょう。そうでないと、同時代の美術シーンの中で、その部分に焦点が当てられてしまう危惧もあります。それから感情的なものを入れると途端に人間的なものになるでしょう。「人間を介さない円環を作りたい」と言うのであれば、感情的なものを徹底的に排除し、人間からどれだけ遠ざけられるかが肝になってくると思います。

伊藤:応募書類をみたときに、結構ハードコアな企画だという印象を受けました。久保田さんがおっしゃるように感情的なところを排除し、でも結果的にやはり“エモさ”みたいなものが必要になってしまうかもしれない。その判断が最終的に出てくると思います。

久保田:私の提案は、モノを置かずにホワイトキューブから考えるということです。真っ白な部屋で鑑賞は成り立つのか。1本の線があれば、それをどう観るかということだけでも鑑賞は成り立つ。マルセル・デュシャンのレディメイドをミニマムにすると、1つの点でも良い。点1つでその意味を生成できるならば、次はそれをつなげたり、分かりやすくするために、2つや3つにしていくとどうなるか。そう考えていくとクリアになる。そういう基本レベルの問題を扱っていると思います。

戸村朝子(以下、戸村):今回のようにアーティストとしての源流となるものや、新作に取り組もうとしているときは、「capable(実現しうる)」で「hackable(ハッキングできる)」なものに陥りがちです。余計なものは削ぎ落とした方が伝わると思います。

芸術的な「意味」について考えていく

久保田:「鑑賞者をつくる」ということは、つまり「意味」を生成する主体を作りたいということです。そこで扱う「意味」は、「芸術的意味」でないと話が拡散してしまいます。芸術的意味が美学とどう関係するのか、どう美術史と関係するのかを一つずつ考えていくとよいと思います。また「鑑賞」についても、サブタイトルで“作品鑑賞”と言っているのだから、これまでの現代美術の文脈における「鑑賞」についてのさまざまな定義や解釈を参照しながら、自分はこう解釈する、自分はこう定義する、ということを作品自身が語り始めるといいですね。

やんツー:これまで、作品をつくる上で最初に言語化したり定義してきたことはありませんでした。次回までに言葉の定義をし、そこに向かって一つでもモノを作ってみたいと思います。何か参考にしたらよい文献があれば教えていただけませんか。

久保田:『分析美学入門』(ロバート・ステッカー著)は、この分野を概観するのに良いと思います。デュシャン以降、美術には絶対的な「美」があるのではなくコンテクストで決まるということが言われ、今回の作品は、それをどのように作品で表現していくか、ということだと思いますが、この本はそのことを議論するための基本的な言葉遣いを共有しましょう、というスタンスで書かれています。そこを踏まえておくと、現代美術の理論家との議論もできると思います。その線では『分析美学基本論文集』(西村清和 編・翻訳)も参考になると思います。

戸村:アーティストの藤幡正樹さんに勧められたのですが、『ミュージアムの思想』(松宮秀治 著)もおすすめです。西洋から輸入された概念であるという背景からも「美術とは何か」「美術館とは何か」「博物館とは何か」について書かれています。「鑑賞とは何か」を扱っていく上で、西洋から輸入しているという文脈を理解することもよいと思います。

―次回の中間面談では、「鑑賞」に関する言葉の定義と、作品の方向性が報告される予定です。